今も愛されているイギリスの紅茶ブランドの「トワイニング」を中心に、イギリスに紅茶が普及した理由を貿易の観点から振り返り、そしてその変遷を辿っていきます。

【イギリスのお茶の貿易の普及:トワイニングを中心に】

イギリスが、“紅茶の国”になった理由の一つにあると言われているのは、オランダの東インド会社が18世紀にインドネシアのジャワ島と、インド南方のセイロン島で大規模なコーヒー農園に着手したことで、安価なコーヒーが大量にヨーロッパ大陸に流通したため、イギリスはモカ・コーヒー貿易から手を引き始め、新たに中国貿易の独占を目論み、お茶の貿易にシフトした事である。

その様を体現しているモノとして、今も愛されている紅茶ブランド「トワイニング」がある。

■Twining■

「トワイニング」の創業者トーマス・トワイニング(1675-1741)は、東インド会社の職員だった。東インド会社は、貿易先の国との貿易を独占的に行うある意味ではイギリス公認の機関のようなものだった。そこで仕入れている商品からトワイニングは良質な商品を選び抜き、自分で設立した店舗で販売できるルートの確保を考えた。

①コーヒーハウス「トムの店」

1706年、トワイニングは「トムのコーヒーハウス」を買収し、当時全盛期だったコーヒーハウスの経営に乗り出した。この時には紅茶も扱っていて、紅茶も扱う珍しいお店としてロンドンの紳士の支持を集めていた。また1666年のロンドン大火以降新たに貴族が住む場所となっていたロンドンとウェストミンスターの国境の立地であるというのも完璧だった。

当時は水が汚染されていたこともあり、コーヒーショップにおいてはジンやエール、コーヒーなどが提供されいて、朝食からそのような物が飲まれていた。また当時はコーヒーショップは男性のみの場所であったが同じ趣味や嗜好の者が集まる傾向にあった。そこで、紅茶を扱うという事は新たな紳士の支持を集める結果となったようである(珍しく更に税金が当時大きくかかった為ティーは上流階級受けする飲物だった)。

②ゴールデン・ライオン

しかし、少し前、1696年にオランダ東インド会社がジャワ島にコーヒーの原木を持ち込む事によって始まった大規模な農園が成長し、オランダ東インド会社が主導する安価で大量なコーヒーがヨーロッパ市場に流通し始めていた。

そのため、イギリスの東インド会社は徐々にコーヒー貿易から中国の広州での貿易で得れるお茶の貿易にシフトしつつあった。

その時代の流れもあり、トワイニングで扱う商品もティー(紅茶・お茶)に変わっていき、ついに1707年には紅茶専門の高級店「ゴールデン・ライオン」も開業。巷のコーヒーハウスは男性客のみを対象としていたが、このお店では特別室を設け、女性客にも開放したため、上流階級の幅広い顧客層を開拓する事に成功した。トムのコーヒーハウスでティーを扱っていた時には、ティーの購入を望む女性が外で待っていて使いの者が店内で買うという光景が見られていたため、それを専門にしたのだと思う。1717年には3つの邸宅を連結させお店の規模を拡大し、本格的な特別室を含んだティーショップを稼働させたよう。そして1734年にはほとんどティー(紅茶およびお茶)を扱う店舗となっていた。

③その後

1762年、三代目メアリー・トワイニングのときには、店頭の看板に黄金のライオンが飾ってあったのを更に中国人商人を座らせ、中国から緑茶と紅茶を直輸入しているという証を、店舗の看板で表現した。

1773年、アメリカ独立戦争のきっかけともなるボストン茶会事件が起こる。財政が悪化していたイギリスの東インド会社を救うべく、東インド会社に大量に余っていたお茶を処分するために、アメリカへのお茶の輸出完全を引き下げる政策を行った。しかし、アメリカからヨーロッパに密輸(お茶は東インド会社の独占商品だったため)していた人たちがお茶が安価になると生計が立てられなくなると猛反発し、イギリスからアメリカに運ばれてきたお茶をすべて港に上げず海に捨ててしまう。ただ、以前からトワイニングのお茶はボストン知事の御用達となっていて、1749年にはアメリカで販売されいてアメリカで有名であったため、ボストン茶会事件のときに港で捨てられたお茶の中にトワイニングが含まれていませんという記述が残っている。

1783年、アメリカ独立戦争に敗北する事でイギリス議会は荒れホイッグ党が落ち込みトーリー党の小ピットが首相となった。その際、4代目リチャート・トワイニングが助言し、お茶の高い税率は密輸を増長させるだけで、下げた方が東インド会社の中国とのお茶の貿易を刺激する事にも繋がり全体的な収益が大きくなるという事に耳を傾け、1784年「コミュテイション法」を成立させる。この4代目がお茶の貿易に精通していて、1787年には現在のロゴを採用している。

それによって一方的にイギリスは中国に銀を流出してしまうことになり、インド産のアヘンを中国に売るようになり、結果的にアヘン戦争に繋がる。また東インド会社の独占的性質がインドのセポイの反乱を起こす要因の一つにもなったり、色々東インド会社の貿易独占は弊害が大きくなり1858年に解散を決定している。

1858年はアロー戦争が一端南京条約で停止した年であり、日英通商修好条約が結ばれた年でもあり、インドのセポイの反乱が起きた年でもある。因みにインドはその後東インド会社の統治からイギリス直属の統治へと移って行く。

※『世界史をつくった海賊』竹田いさみ、2011、ちくま新書参照、他にもトワイニングのイギリス版ホームページや英語版Wikipediaを参照

【イギリスの食を探す⑩ アールグレイ&アーマッドティー】

柑橘系の高貴な香りが広がるアールグレイは、イギリスの首相の名前に因むとも。

1830~34年に、イギリスの首相を務めたチャールズ・グレイ(「アール・グレイ」は訳すと「グレイ伯爵」)が紅茶好きであったことも関係するとか。

アールグレイは柑橘系のベルガモットで香りづけした紅茶ですが、ベルガモットは当時から嗅ぎタバコやジンの匂いづけとして使われており、当時の大植物学者ジョセフ・ハンクスによってお茶の香料として使われ始めたとも言われています。

写真の商品は、「アーマッド・ティー」という紅茶で世界第五位のイギリスに本社を置く会社の商品の「クラシック・シリーズ」です。

もともとは1950年代にイギリスで紅茶のブレンドを学んだとも言われるアーマッドがインドからイランにかけて紅茶を輸入して販売したのが始まりで、現在でも「アーマッド・ティー」はイランで一番シェアが高いようです。その後、1979年のイラン革命の関係でイギリスに移住し、1980年代には東ヨーロッパにも支持され、現在では世界的に有名な紅茶メーカーとなっています。

このアールグレイも、コクに深みがあり、特徴的な味ですね。

おまけは2020年1月10日執筆

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